高津 臣吾(髙津 臣吾、たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、プロ野球監督、野球解説者、野球評論家。現在は東京ヤクルトスワローズの第22代監督を務めている。
日本プロ野球(以下:NPB)・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)・韓国プロ野球(以下:KBO)・台湾プロ野球(以下:CPBL)の4つの野球リーグを経験した初の日本人選手。
現役時代はサイドスローからの鋭いシンカーを武器に抑え投手として活躍し、ヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)の90年代黄金期を支え4度の日本一に貢献した。
NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブ、最終的には通算313セーブを記録した。
高校卒業後は小川成海監督に勧められ亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎がおり、投の二本柱として活躍。東都大学野球リーグでは1990年に春秋季連続優勝を飾る。
同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大を降し優勝。リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。
大学2年のとき、スピードをつけるため、アンダースローからサイドスローにフォームを修正する。このときシンカーを投げるようになった。他の大学同期に川尻哲郎がいる。
大学卒業後は広島東洋カープへの入団を希望したが、カープからは横手投げは獲らないといわれ獲得のオファーはなかった。
社会人野球の三菱重工広島の内定を得ていたが、ヤクルトスワローズから小池秀郎の視察に来ていた片岡宏雄 が、横手投げの面白い投手である高津に着目し、1990年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団。
もしも論ではあるが、ヤクルトスワローズがドラフト会議で小池秀郎の交渉権を獲得できていた場合、高津臣吾を指名することはなかったと言われている。
高津監督は「(開始)5分後には追いかける展開となった。立ち上がりは難しいと思いますが。先に点を与えたくなかった。やっぱりゲームを勝とうと思うと先に点を取った方が有利に決まっている」。
https://news.yahoo.co.jp/articles/05c8d00a49df457266f23a05e14e5be842897470
先制点取られても去年は勝ってた