1991年に和歌山県日高郡美浜町で生まれる。小学2年から松原少年野球クラブで外野手として野球を始める。松洋中学時代は日高マリナーズに所属し、2年から本格的に投手としてプレーする。3年春にはボーイズ関西選抜に選ばれ、筒香嘉智らとともに世界大会に出場した。
高校は智弁和歌山高等学校に進学。1年春からベンチ入りすると、夏には県大会準決勝・決勝、甲子園に出場し、1年生で唯一のベンチ入りを果たした。
初戦の対仙台育英高校戦で先発し、佐藤由規と投げ合うも、3回1/3を投げて3安打、3奪三振、2四死球、2失点で敗戦した。その後も2年春・夏と三季連続で甲子園に出場。背番号10ながらもエースとして活躍し、連続8強入りを果たした。2年夏の甲子園では、3回戦まで自責点0、4試合を投げて防御率1.40と好投し、チームのベスト8入りに貢献した。
3年夏は予選で32回1/3を無失点、44奪三振という内容で甲子園に出場したが、甲子園では体調不良により本来の投球が出来なかった。しかし、初戦を完封で飾るなど、不調に苦しみながらも甲子園では3試合37奪三振と存在感を見せ付け、その後の全日本選抜チームに選ばれた。
日米親善高校野球派遣前に練習試合で大学生相手に3回無安打7三振無失点で好投し、全日本選抜のエースに選ばれた。智弁和歌山高校時代は異例の「絶対的エース」としてマウンドを守った。
監督の高嶋仁が例年複数投手制を採用するなか、岡田のみは絶対的エースとして君臨した。そのためか、メディアから下級生時には「高嶋監督の秘蔵っ子」、最後の夏は「夏の申し子」と呼ばれた。スカウトも「岩瀬仁紀2世」と絶賛していた。高校の1学年先輩に坂口真規、1学年後輩に西川遥輝がいる。
2009年10月29日に行われたドラフト会議では、菊池雄星を外した中日ドラゴンズから1位指名を受け、入団した。背番号は、前年オフにMLBのアトランタ・ブレーブスに移籍した川上憲伸が着用していた11。入団会見で、「エースとして活躍したいので、少しでも近づけるように、技術を磨いてしっかりやっていきたい」と意気込みを語った。