6歳の時に兄・亮太の影響で野球を始める。吹田市立豊津第一小学校時代は軟式チームの豊津東少年野球団に所属。6年生時には阪神タイガースジュニアに選出された。
吹田市立豊津中学校に進学すると、赤星憲広がオーナーの硬式野球チーム・レッドスターベースボールクラブへ入団。高校は履正社高等学校へ進学。
履正社高校では、1年秋から「5番・三塁手」に座り主軸に定着した。2年春に4番に座ると同年夏には大阪大会で25打数13安打2本塁打15打点の成績を残し甲子園大会出場に貢献。
甲子園では12打数4安打を記録するも、チームは3回戦で敗退した。いわて国体では広島新庄高校との決勝戦で本塁打を放つなど、優勝に貢献した。
寺島成輝ら最上級生が抜けた新チームでは新たに「3番・三塁手」に座り、秋季大会では50打数21安打4本塁打22打点と好成績を残し近畿大会で優勝。国体後の明治神宮大会でも優勝を果たした。
3年春の選抜大会では17打数7安打で準優勝。報徳学園高校との準決勝第1打席にて甲子園初本塁打を記録した。
夏の大阪大会では準決勝で大阪桐蔭高校に敗れ、甲子園出場はならなかったが、19打数12安打3本塁打13打点、出塁率.759、長打率1.316、OPS2.075と驚異的な成績を残した。
コーチの言う事全く聞かないでフォーム変更ばかりやってる
何故か勝手にダイエットして長打力を自ら下げる
こんなんじゃどうにもならんやろ