那覇市立城北小学校4年生のときに友人に誘われて野球を始め、「首里マリナーズ」に所属。那覇市立城北中学校時代は、大矢明彦が名誉監督を務める硬式の「チームSOLA沖縄」(現・大矢ベースボールクラブ)でプレー。
一塁手として全国大会出場経験がある。当時の監督であった大久保勝也からは「おまえはホームランバッターになれるから、絶対に小さい打撃をするな」と指導を受けていた。
中学時代、勉強が全くできなかったものの野球は「何となく」続けていたという。同チームの1学年下に大城卓三がいた。なお、中学校内ではバレーボール部に所属していた。
沖縄県立中部商業高等学校では主に一塁手、外野手として出場し、2年生秋から4番打者を務めた。
3年夏は沖縄大会決勝に進出。この試合では2安打を打つ活躍を見せたが、チームは2年生エースの島袋洋奨を擁する興南高校(この翌年には春夏連覇)に2-4で敗れた。
甲子園出場経験はなく、高校通算27本塁打。2学年下には富士大学、埼玉西武ライオンズでもチームメイトとなる多和田真三郎がいた。
予算
中田翔さん、ホークス入り