奥州市立姉体小学校3年時に水沢リトルリーグで野球を始め、全国大会に出場した。当時の捕手は、恐怖を感じるほど球が速かったと語っている。小学校5年生にして球速110 km/hを岩手県営野球場で記録し、また1試合で6回17奪三振の成績を残したこともあった。奥州市立水沢南中学校時代は一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場した。
大谷が少年時代に憧れた野球選手は、打者では松井秀喜、投手ではダルビッシュ有だったという。
自身が中学3年時にセンバツ大会決勝に進出した岩手県の花巻東高校のエース、菊池雄星に憧れ、同校へ進学。「日本一になる」「日本人最速となる球速160km/hを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」ことを目標に掲げた。MLB移籍後(2019年時)も「僕にとって雄星さんは特別な存在」と語っている。
大谷はこの高校での寮生活について、良い環境であり自身が大きく変わるきっかけになったと後に語っている。生活や娯楽に制限を受けたことで、何が正しいのかを考えて行動することの重要性を学んだという。
親以外の指導者から教わる経験も初めてであった。監督の佐々木洋による『先入観は可能を不可能にする』(先入観を捨てることによって不可能が可能になる)という言葉を心に刻んだ。
入部後は監督の佐々木洋の「まだ骨が成長段階にある1年夏迄は野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により、1年春は「4番・右翼手」で公式戦に出場。秋からエースを務め、最速147 km/hを記録。