前橋工業高校時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から140km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅・木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の家庭教師をつけて受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した。
高校3年次の群馬大会では、太田工業高校との決勝で最終回に押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫した。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった1981年夏の第63回全国高校野球選手権のみで、準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫している。
1983年のドラフト会議で、西武ライオンズは高野光を1位指名するも抽選で外れ、ハズレ1位で指名され入団した。
2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された。本人は後に、この異動について「今度はフロントとしてチームを見ていきたい、という気持ちが出てきた」「『やるからには根本さんを目指す』と決めました」と語っている。
2017年1月1日、シニアディレクター兼編成部長への異動が発表された。
高橋
今井
平良
隅田
武内
3年たったら半分いなくなるな
これに和田が入るんだろ