福浦 和也(ふくうら かずや、1975年12月14日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(内野手、左投左打)。現在は千葉ロッテマリーンズの一軍ヘッド兼打撃コーチ。
現役時代は地元出身のフランチャイズ・プレイヤーとして千葉ロッテマリーンズに26年間所属。球団史上3人目の2000安打達成者であり、「幕張の安打製造機」の異名をとった。
熊本県出身の父と千葉県生まれの母との間に、当時の東葛飾郡浦安町に生まれ、4歳の時に習志野市に転居した。習志野市立大久保東小学校1年の時に父の影響で野球を始め、習志野市の野球チーム「あずまクラブ」に所属。この頃はテレビで巨人の試合をよく観ていて、篠塚和典や吉村禎章らに注目していた。また、小学6年生の頃から習志野高校を志望し、プロ野球選手を夢見るようになったという。習志野市立第二中学校ではリトルリーグで一時期プレーしていた関係でバスケ部に入部するが、数か月後に野球部へ転部する。1年後にはエースとなり、3年春に市内大会で優勝を果たす。中学時代に同郷の井上貴朗と投げ合ったこともある。
習志野市立習志野高等学校では1年時からレギュラーになり、2年時からは4番に定着。高校通算20本塁打を記録した。2年秋頃からは最速142km/hのストレートとカーブのコンビネーションを武器にエースとしても活躍した。2年夏(1992年)の県大会では東京学館技術との4回戦で本塁打を放つ。チームはベスト8に進出するが、準々決勝で立川隆史を擁する拓大紅陵に敗退。秋季関東大会県予選の準々決勝では、暁星国際高に8回コールド負け。3年春(1993年)には練習試合でノーヒットノーランを達成している。夏の県大会では3回戦で野田北高に敗退。
1993年のドラフトで地元球団・千葉ロッテマリーンズに投手として7位指名され入団。指名がなければ社会人チームで野球を続ける進路を考えていたという。この年はドラフト会議における逆指名元年で、同時に始まったフリーエージェントも相俟って各球団指名選手数を絞る中、唯一ロッテは7人目を指名し、全球団を含めてこのドラフト会議での最終指名者となった。支配下登録選手枠70名の最後という扱いで背番号は70に決まった。
「この間チームは一塁しか守れない大砲助っ人を『福浦いるから』ととらなかったわけだから」
スタメン期間
.284 3 57
.277 3 35
.296 7 56
.346 18 67
.300 9 66
.303 21 76
.314 11 73
.300 6 72
.312 4 52
.258 4 57
.252 1 44
.273 6 39
.295 13 61
.223 3 43
先発陣の防御率とスタメンの打撃成績が9割
現役時代に言えや