小学校2年生で野球を始めた。当時は内野手兼投手だったが、同級生に大田阿斗里(横浜ベイスターズに入団)や垣ヶ原達也(青山学院大学→日立製作所)といった好投手がおり、投手としての自分に限界を感じて野手を志したという。子どもの頃は埼玉西武ライオンズのファンだった。
帝京高等学校入学後1年夏からベンチ入り。1年秋から「不動の4番打者」に君臨して、2年夏から3季連続で甲子園に出場。2年秋からは主将を務め、高校通算本塁打は60本を記録した。3年夏の甲子園では15打数で7安打を記録。監督の前田三夫曰く、「下級生が4番に座ることに対して不平不満を誰もいわないくらいに勝負強かった」という。帝京高校では1学年下に杉谷拳士と髙島祥平、2学年下には原口文仁がいた。
2007年10月3日に行われた高校生ドラフト会議では、福岡ソフトバンクホークスから3位指名を受け、同年10月22日に契約金5000万円、年俸600万円(いずれも推定)で仮契約した。担当スカウトは作山和英。背番号はかつて野村克也や門田博光といった南海のレジェンドが背負っていた60。
帝京高監督の前田三夫の方針により一塁を守っていたが、自身の強肩・俊足を生かすため、本人の意向でプロ入りに際し外野手へ転向。目標の選手として、当時のチームメイトで同じ左投左打の外野手である柴原洋と大村直之の名前を挙げている。