実家は橋本市内でガソリンスタンドを営んでいた。小学2年の時に和歌山ニューメッツで野球を始めた。
中学では堺ビッグボーイズに所属、4番として30本塁打を記録。中学3年で全国大会ベスト8。ボーイズ関西選抜の4番として世界大会に出場。中学時代は野球漬けで学校が終わって友達と遊んだことは1度もなかったといい、授業が終わると自宅裏に父が設営した「手づくりドーム」に直行したという。打撃マシンの球詰めは兄・筒香裕史が買って出て、兄は大学を中退してまで自分の練習に付き合ってくれたという。
関西の強豪校からの誘いもあったが、小学校1年生の時に初めて観戦した夏の甲子園大会で横浜高等学校の試合(1998年8月20日のPL学園対横浜延長17回)を観て感激し、自ら横浜高校に連絡して入学と野球部入部を志願する。セレクションにて柵越えを連発して合格、進学し、1年春から4番に抜擢される。1年生での4番は紀田彰一以来。夏は神奈川大会準決勝・東海大相模戦で、同校の菅野智之の「振り逃げ3ラン」が重くのしかかり敗退。この試合では三塁手を務めており、横浜高校の捕手は「振り逃げ3ラン」の時、筒香にボールを渡していた。
2年夏に第90回全国高等学校野球選手権記念大会に出場。初戦の浦和学院高等学校戦では先制本塁打。準々決勝の聖光学院高等学校戦では満塁弾を含む2打席連続本塁打を放ち、1試合個人最多タイとなる8打点を挙げる。準決勝で大阪桐蔭高等学校に敗れた。この大会では打率.526・3本塁打・14打点の活躍で4強入りに貢献。その後、腰痛の悪化により椎間板ヘルニアと診断され2か月弱のリハビリをする。一時期スイッチヒッターへ転向するも左打ちに専念。
3年春の花巻東高等学校との練習試合では、4回の攻撃時に菊池雄星から特大ソロ(高校通算55本目)を放っている。しかも数日前から体調を崩し、当日の朝であっても39度の高熱が下がらないにもかかわらず、監督に出場を志願していた。
この夏の神奈川大会における7月26日の準々決勝では、9回表にチームが同点に追いつき、なおも二・三塁の好機に打順が巡ってきたものの、一塁ゴロで同点止まり。すると延長10回裏に二死から自身の失策がきっかけとなり、横浜隼人高等学校に9-10でサヨナラ負けを喫した。第8回AAAアジア野球選手権大会の日本代表に選ばれた(高校通算69本塁打。うち2本は右打席)。
2009年10月29日に行われたプロ野球ドラフト会議で、地元球団である横浜ベイスターズから単独1巡目指名を受け、11月30日に契約金9000万円、年俸800万円(いずれも推定金額)で契約した。背番号は「55」で、ベイスターズから1位指名を受けて入団した横浜高校出身者は当時、紀田彰一(1994年度のドラフト1位指名)以来だった。当初は右投両打で登録されていたが、後に左打ちに変更された。