3年生時の1975年にはエース兼4番打者として府予選決勝まで進出するも、興國高に0対2で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、読売ジャイアンツからドラフト指名の話を受けたことがあったという。
岡田はプロ入りせずに早稲田大学野球部のセレクションを受験、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという)という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。
ドラフトでは当時史上最多となる6球団(西武・ヤクルト・南海・阪神・阪急・近鉄)が岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった。契約金6,000万円、年俸480万円。
1980年春季キャンプで監督のドン・ブレイザーは「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考えで、一塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い」と告げられたが、岡田は「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと著書に記している。
85年もモブとかじゃなくバリバリの主力やもんな