敦賀気比高等学校で左腕エースとして活躍し注目された。高校時代は田中良平・森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。
仲澤忠厚や李景一らとともに1999年の秋季福井大会・北信越大会では他校を寄せ付けない圧倒的な強さで優勝し、翌年の選抜高等学校野球大会への出場を確実とした。
第30回明治神宮野球大会では内海自身は本調子では無かったが、強力打線の援護により準優勝。第72回選抜高等学校野球大会に出場することが決まり、優勝候補に挙げられていたが、他の部員の不祥事により、敦賀気比高校は甲子園出場を辞退した。
高3夏の福井大会予選では、打線の中心だった仲澤が退部して戦力が弱体化した影響もあり、初戦では福井高等学校、準決勝では若狭高等学校相手にいずれも延長戦を制して辛勝するも、
決勝では山岸穣・天谷宗一郎を擁する福井商業高等学校相手に延長10回の末に2-3で惜敗し、あと一歩で甲子園出場は果たせなかった。
阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された落差の大きなカーブと恵まれた体格から投じる角度のついた最速144km/hの速球の緩急自在な投げ分けで三振の山を築いた。1試合平均14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。
2000年のドラフト会議では複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。
そのため、ドラフト会議では巨人が単独で3位以降で指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。
指名直後に当時の監督の仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李が巨人から8位で指名されたことで逆に巨人への気持ちを強くし、最終的には東京ガスへ進んだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dae87d3b4cf27f2feaa6e7bfc47d44abd022b293