りんどうスポーツ少年団から野球をはじめ、鴻巣市立赤見台中学校では行田シニアでプレーをした。シニアチームの2学年下の後輩に樋口正修がいる。
浦和学院高校へ進学すると1年夏からベンチ入りを果たし、甲子園では3回戦の天理戦で登板し、3回3失点(自責点1)だった。
1年秋からエースを務め、髙橋光成擁する前橋育英や若月健矢擁する花咲徳栄などを破り秋季関東大会を制覇。2年春の甲子園では初戦の土佐戦を6安打完封で突破すると、吉田雄人擁する北照との準々決勝では7回1安打無失点の好投。
岸本淳希擁する敦賀気比との準決勝、安樂智大擁する済美との決勝では9回1失点の完投で好投手との投げ合いを制し、浦和学院を初の全国制覇に導いた。
同大会では5試合全てに先発し、3完投・防御率0.64(42回3失点)と驚異的な数字を残した。2年夏の埼玉県大会では準々決勝の埼玉平成戦で完全試合を達成するなどエースとしての活躍を見せ、甲子園に出場。
初戦の上林誠知、熊谷敬宥、馬場皐輔擁する仙台育英戦では初回に6点を失うなど、8回までに10失点を喫した。
9回10-10で迎えた9回裏に登板前に左足が痙攣し、二死まで扱ぎつけるが、ヒットを許したところで降板。
後を承けた山口瑠偉が熊谷にサヨナラ適時打を打たれチームは敗れた。3年夏は3回戦の川口戦で敗退し、甲子園には届かなかった。
その後U-18日本代表に選ばれ、同大会では3試合にリリーフとして登板し、5イニングで許した安打はわずかに3、自責点は0という好投を披露した。