社会人まで野球をしていた父親の影響で、西貴志小学校1年から野球を始める。小学校時代の3学年先輩に益田直也、1学年後輩に山崎晃大朗がいた。貴志川中学校時代は打田タイガースに所属し、2年時に全国大会優勝を果たす。
智弁和歌山高校進学後は1年時の2008年春から「1番・遊撃手」に抜擢され、春季大会では早くも4本塁打を記録。
第90回選手権大会には直前に手を怪我し、痛み止めを飲みながら主に「9番・三塁手」で出場。初打席でセーフティーバントを成功させ、準々決勝の常葉菊川戦では2打席連続で三塁打を打つなど、13打数6安打を記録した。
1年秋からは3番を任され、2年生になった翌2009年春には右翼手に転向する。6月の明徳義塾高校との練習試合で怪我を負い、その影響で夏の和歌山大会は満足に出場できなかったが、チームは第91回選手権大会に出場した。2回戦の札幌第一高校戦で適時二塁打を打つなど12打数4安打を記録した。
3年生になった2010年にはそれまで苦しんだ故障から回復したが、第82回選抜大会では同大会の優勝校である興南高校に敗れ、2回戦敗退。第92回選手権大会では成田高校に敗れ、初戦敗退となった。高校通算13本塁打。
2010年度ドラフト会議にて内野手として北海道日本ハムファイターズから2巡目指名を受け、契約金6000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団。入団当初の背番号は「26」。
2011年は右肩を故障した影響で、イースタン・リーグの公式戦では指名打者に専念した。5月22日には二軍での活躍が認められ一軍へ昇格したが、試合に出場することなく5月24日に二軍へ降格。10月8日に行なわれたファーム日本選手権では、適時打を含む3安打を打ち優秀選手賞を受賞した。