下妻市立宗道小学校1年時に軟式野球チーム「宗道ニューモンキーズ」に入団、投手兼内野手として野球を始め、下妻市立千代川中学校では軟式野球部に所属。
高校進学に際しては県内の強豪校からの誘いがあったが、憧れの存在であった2学年上の塚原頌平がいたことや、野球部監督の沢辺卓己の誘いもあり、つくば秀英高等学校へ進学。
進学後は、1年時から投手兼遊撃手をつとめ、通算27本塁打を打った。2学年上に塚原、同学年に中塚駿太がいたが、在学中には春夏とも甲子園球場での全国大会に出場できなかった。
高校卒業後は、中塚と共に白鷗大学へ進学。関甲新学生野球のリーグ戦には、大学1年時の春から三塁手として出場すると、1年時の春季と2年時の秋季にベストナインへ選ばれた。
4年時の春季リーグ戦では、打率.417、リーグ新記録の8本塁打、タイ記録の20打点を達成。本塁打王と打点王を獲得するとともに、三塁手として3度目のベストナイン選出を経験した。リーグ戦では通算98試合に出場。
119安打、16本塁打、93打点[7]を記録した。大学4年時の夏には第40回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出。全5試合に「4番・三塁手」としてスタメンで出場したものの、結果は15打数2安打1打点にとどまった。3学年下に大下誠一郎がいる。
2016年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1巡目で単独指名。年俸1500万円、契約金1億円に出来高分5000万円(金額は推定)を加えた最高条件で入団した。