那覇市立城北小学校4年生のときに友人に誘われて野球を始め、「首里マリナーズ」に所属。那覇市立城北中学校時代は、大矢明彦が名誉監督を務める硬式の「チームSOLA沖縄」(現・大矢ベースボールクラブ)でプレー。一塁手として全国大会出場経験がある。当時の監督であった大久保勝也からは「おまえはホームランバッターになれるから、絶対に小さい打撃をするな」と指導を受けていた。中学時代、勉強が全くできなかったものの野球は「何となく」続けていたという。同チームの1学年下に大城卓三がいた。なお、中学校内ではバレーボール部に所属していた。
沖縄県立中部商業高等学校では主に一塁手、外野手として出場し、2年生秋から4番打者を務めた。3年夏は沖縄大会決勝に進出。この試合では2安打を打つ活躍を見せたが、チームは2年生エースの島袋洋奨を擁する興南高校(この翌年には春夏連覇)に2-4で敗れた。甲子園出場経験はなく、高校通算27本塁打。2学年下には富士大学、埼玉西武ライオンズでもチームメイトとなる多和田真三郎がいた。
「高校の時は頑張って甲子園だけ目指して燃え尽きる気持ちでやってました」といい、高校までで野球は辞めるつもりでいたが、沖縄県予選準決勝で山川がバックスクリーンに本塁打を放ったのを目の前で見た青木久典に、自身と母親の前で土下座され、“1年生から必ず4番を打たせて、必ずプロに行かせるのでうちに来てください”と懇願されたのを受け、富士大学経済学部経営法学科に進学。監督の約束通り1年生の春から4番を務め、北東北大学野球・秋季リーグでは打点王を獲得した。2年生時に第38回日米大学野球選手権大会の日本代表に選ばれ、第1戦で満塁本塁打を打った。3年生時には11月開幕の第26回アジア野球選手権大会の日本代表として、翌年3月に行われた東日本大震災復興支援ベースボールマッチに大学選抜メンバーとして出場した。 大学4年生時の春季リーグでは指名打者のベストナインを獲得した。なお、5月26日の対八戸学院大学戦では推定飛距離140メートルの本塁打を打っている。6月に第39回日米大学野球選手権大会の日本代表候補に選出されたが、最終メンバーからは外れた。10月に行われた東アジア競技大会では大学生で唯一日本代表に選ばれて4番を務め、韓国戦で満塁本塁打を打った。大学リーグ通算成績は78試合出場、11本塁打、55打点、打率.304。ドラフト後の10月27日に行われた、第5回明治神宮野球大会東北地区大学野球代表決定戦の準決勝・対東日本国際大学戦で本塁打2本を打った。チームは決勝で八戸学院大学に敗れたが、自身は大会の敢闘賞を受賞した。
2013年10月24日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズに2位指名を受け、契約金7000万円、年俸1200万円(金額は推定)で仮契約を結んだ。同大学からは4人目のプロ入りで、野手では初となった。背番号は33。
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