「徳政(とくせい)」とは天人相関思想に基づき、為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策のことであり、「新制」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付、所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。
鎌倉時代に入ると災害や戦乱などの社会的混乱が貴族社会にも及び始め、遂に承久の乱では朝廷軍が敗北して上皇の流罪が行われるなど、貴族社会が存続の危機に差し掛かっていることが明白となった。こうした中で、朝廷内では現実的な政治に目を向ける事で求心力を回復させて昔の権威を取り戻そうとする動きが盛んになった。「徳政」はその路線の上に推進された政策であった。
鎌倉幕府も朝廷政治の状況を批判的に見る立場から朝廷に対して「徳政」推進を求めた。後嵯峨上皇の下で記録所が再建され、続く亀山上皇院政下の1286年(弘安9年)には、院評定を徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)と雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)に分割するなどの改革を行い(「弘安徳政」)、1293年(正応6年・永仁元年)には伏見天皇(のち上皇)が記録所を徳政推進の機関として充実を図った(「永仁徳政」)。