ヒューストンのスプリング・ウッズ高校ではアメリカン・フットボール、バスケットボール、そして野球の3種目でスターとして活躍した。野球では一塁手と投手でテキサス州選抜に選ばれ、3年次にはフィラデルフィア・フィリーズとミネソタ・ツインズから誘いを受けるが、断り大学に進学。大学ではアメリカン・フットボールのディフェンシブ・ラインとして1つ、バスケットボールのセンターとして2つの推薦を受けるものの、大学では野球を続けることを選択した。
1981年にはサン・ヤシント・カレッジで9勝2敗の成績を挙げ、全米選抜に選ばれた。同年ニューヨーク・メッツにドラフト12巡(全米288位)で指名されるがこれを拒否し、テキサス大学へ進学した。1982年から2年間で25勝7敗、275イニングを投げ、奪三振241を記録。1983年に全米大学野球選手権で優勝し、当時付けていた背番号21は同大最初の永久欠番となっている。それまで全米一の大学野球選手に与えられていたロータリー・スミス賞は2004年よりクレメンスの功績を称えてロジャー・クレメンス賞と改名された。
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