生光学園中学校2年までは主に内野手を務め、投手として活躍し始めたのは3年生になってからだった。軟球でスライダーやカーブを投げられ、四国大会での優勝に貢献するなど活躍したが、投手にはこだわりをもっておらず誘いを受けていた強豪高へ進学し野手転向を考えていた。しかし、本人が留守中に生光学園高等学校の野球部長と監督が家を訪れ、父親を説得して同校への進学が決まった。その後は周囲に説得され、投手を継続した。生光学園では1995年夏の徳島大会で準優勝。同年秋は四国大会に進むが、1回戦で岩村明憲のいた宇和島東高に敗退し春の選抜出場を逸する形となった。翌1996年夏も徳島大会準々決勝で鴨島商に惜敗し、甲子園大会には出場できなかった。
卒業後は駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは1年生の1997年春季リーグから登板し、同年秋季リーグでは優勝を経験。防御率1位となり最高殊勲選手に選ばれた。同年の第28回明治神宮野球大会では準決勝に進むが、近大に延長16回敗退。しかしその後はチームが低迷し、リーグ優勝には届かなかった。リーグ通算63試合に登板し、当時の駒澤大学の投手通算勝利数としては、新井富夫(日本通運の先輩にもあたる)の30勝、橋本時男の26勝に次ぎ、河原純一の23勝と並ぶ3位タイの23勝(18敗)。防御率2.27、232奪三振。駒大では3学年先輩に高橋尚成、2学年先輩に新井貴浩、1学年後輩に稲田直人と前田大輔と川岸強、2学年後輩に梵英心、3学年後輩に古谷拓哉がいた。
卒業後は日本通運に入社、配送業務を担当していた。2001年の都市対抗に出場し、2勝を挙げる。準々決勝ではJTを相手に史上6人目の毎回奪三振を達成した。しかし三菱自動車岡崎との準決勝では、延長10回に投手陣が福川将和らに打ち込まれ敗退。この大会では若獅子賞を受賞した。
2002年の都市対抗でも活躍し、ドラフト会議では、日本ハムファイターズから4巡目で指名を受け、推定年俸1500万円という条件で入団した。背番号は当初43に内定していたが、後に入団するエンジェル・エチェバリアが着用を希望したことから、54に変更された。
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