小学校1年生の時から野球を始める。西武拝島線玉川上水駅近くの桜が丘周辺に住んでいたこともあり、小さい頃はファンクラブに入って西武ライオンズ球場に通い詰めるほどの熱烈な西武ライオンズファンだった。中学時代は東大和リトルシニアでプレーし、堀越高等学校に進学。
堀越高校は野球推薦で入学したが、技術の事よりも連帯責任や精神的な指導が多い部活環境が合わず、1年の秋には退学覚悟で退部も考えたが、担任から「野球部じゃなくてもいいじゃないか。
高校は卒業しておけ」と言われたことや、シニア時代の監督から「お前が野球を好きなら続けなさい」と助言を受け、思い留まった。
3年夏は西東京大会準決勝で日大三高にコールド負けするなど甲子園に出場はできなかったが、春の大会でプロ注目の選手が多かった帝京高校と対戦して好投するとプロのスカウトの目に留まり、1999年度ドラフト会議にて大阪近鉄バファローズから5位指名を受けて入団。
なおこの時、中日ドラゴンズも4位で指名するプランを持っていたが、球団事情で指名を見送ったという。