小学校2年の時に「三鷹リトルシニア」で野球を始める。同じリトルシニアには高江洲拓哉が所属していた。三鷹市立第六中学校時代の「三鷹シニア」ではエース兼四番打者として関東大会に出場。國學院久我山高校では同級生に笠木新や田村知佳 (野球)(女子野球代表、高校女子野球部監督)ら、1年下に河内貴哉がいた。1997年秋季東京大会では河内の好投もあって準決勝に進むが国士舘高に敗退。翌1998年夏の甲子園西東京予選も準決勝で桜美林高に10-9で惜敗、甲子園には届かなかった。
國學院大學に進学。当時の國學院大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが、通算23本塁打を記録し「井口資仁二世」と呼ばれる。当時高校の先輩である井口が所属していた福岡ダイエーホークスや日本ハムファイターズが獲得意思を示したが、矢野は高校時代から注目してくれていたという読売ジャイアンツ(巨人)への入団を熱望していた。同球団関係者は「足が速いし、魅力がある。打撃もパンチ力があり、遠くへ飛ばす力を持っている」と高く評価していた。
2002年のNPBドラフト会議で、巨人から6巡目で指名を受け、契約金6,000万円、年俸660万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は48。
やりきれない思いを抱いたまま、宿舎でチームメートと離れて過ごしていたところ、ふとポケットに紙切れが入っていることに気づいた。
「見てる人は見てるからな」。
当時の巨人の主力選手だった現ソフトバンク・小久保監督からの励ましのメッセージが書かれていた。