岱明町立岱明中学校では軟式野球部で活躍。1987年、熊本工業高校に入学。2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園に出場。3年時の夏には主将・4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は一塁ゴロ)となった。また、高校の2学年後輩に塩崎真がいた。
3年時の甲子園大会後、熊工には西武ライオンズを除く11球団、前田の自宅にも異例の8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州の福岡ダイエーホークスは上位指名を示唆するなど熱心だった。しかし同年11月に行われたプロ野球ドラフト会議ではダイエーからの指名はなく、広島東洋カープが4位で指名。前田は会見場でテレビ中継を見た後、1時間近く泣き続け、一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川孝雄スカウトは、「ダイエーは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。
4位まで指名されなかった理由として、宮川は「ドラフト会議の前、カープを含む各球団に文書が出回った。後輩が他校の生徒に殴られたと知った前田が、単身その学校に乗り込んで仕返しをしたという内容だった。」と伝えている。
1989年のドラフト4位で広島に入団。
試合前の練習見てて思った